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「親鸞における釈迦仏と阿弥陀仏」 (抜粋)信楽峻麿
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 次に親鸞がこの『無量寿経』の外相的形態的な面において、それは釈迦仏によって開説されたものというべきではなく、阿弥陀仏自身によって説示された経典であって、その故にこそ、この『無量寿経』が真実であると主張するについては、その基本は上に見たところの、その内実的本質的な面において、その宗体としての阿弥陀仏の本願と名号が絶対真実であるということに根拠するものであるが、より具体的には、親鸞における釈迦仏と阿弥陀仏の二尊観をめぐる、独特な領解があったことが窺われてくるのである。
親鸞における釈迦仏と阿弥陀仏の関係については、(1)阿弥陀仏と釈迦仏の別立、(2)阿弥陀仏と釈迦仏の統合、という二面を見ることができるようである。
その阿弥陀仏と釈迦仏の別立については、親鸞には阿弥陀仏と釈迦仏の関係について、その両者を区別して、いわゆる二尊別立の立場において捉える発想がある。
そのことは、もと浄土教の伝統に基づくものであって、『無量寿経』においては、
「仏阿難に告げたまはく、汝起ちて更に衣服を整え、合掌し恭敬して、無量寿仏を礼したてまつるべし。(中略)即の時に、無量寿仏大光明を放ちて、普く一切の諸仏の世界を照らしたもう」
と説き、また『観無量寿経』においては、
「仏まさに汝が為めに苦悩を除く法を分別し、解説すべし。汝等憶持して広く大衆の為めに分別し、解説せよ。是の語を説きたもう時、無量寿仏空中に住立したもう」
と説かれる如くである。
ここには何れも、釈迦仏の教説に対する阿弥陀仏の呼応、此土現前が語られているのである。
二尊別立の思想である。
このような発想は、その後の浄土教に伝統されるわけであって、龍樹浄土教においては、その『十住毘婆沙論』の『易行品』で、諸仏諸菩薩にかかわる信方便易行の道を説示するについて、百七仏章において阿弥陀仏が説かれるに対して、過未七仏章においては釈迦仏が語られているのである。
また世親浄土教においては、その『浄土論』の冒頭に、「世尊よ我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつる」と表白するについても、釈迦仏と阿弥陀仏が対称的に捉えられているのである。
また善導が、その『観無量寿経疏』の『玄義分』において、
「然るに娑婆の化主、その請に因るが故に即ち広く浄土の要門を開く、安楽の能人は別意の弘願を顕彰す。(中略)釈迦は此の方より発遣し、弥陀は即ち彼の国より来迎す、彼に喚び此に遣はす。豈に去かざるべけんや」
などと説いて、釈迦仏と阿弥陀仏の、彼此喚遣を語るところにもよく窺われるところである。
これらは何れも二尊別立、二尊二教として、釈迦仏の教法と阿弥陀仏の教法とを分別し、釈迦仏は此土より阿弥陀仏について示教し、阿弥陀仏は釈迦仏の指示に応じて、彼土において招喚するというのである。
親鸞もまた、そのような理解を継承するところであって、
   「釈尊の教勅、弥陀の誓願」(尊号真像銘文)
   「釈迦の発遺を蒙り、また弥陀の招喚に籍り」(浄土文類聚鈔)
   「釈迦弥陀の二尊の勅命」(尊号真像銘文)
などと明かして、釈迦仏は此土成仏の仏として彼岸なる浄土を教示し、阿弥陀仏は彼土成仏の仏としてわれらを招喚、摂取したもうと領解しているのである。
そしてまた親鸞は、
   「釈迦の慈父弥陀の悲母」(唯信鈔文意)
   「釈迦弥陀は慈悲の父母」(高僧和讃)
などとも讃じて、釈迦仏と阿弥陀仏を父と母との関係において捉え、その方便によってこそ、われらはよく浄土に往生をうるというのである。
ここには何れも、釈迦仏と阿弥陀仏とを対等に捉え、またその両者にそれぞれの存在意義を認めて、それらの相互関係について明かしているわけである。
すなわち、二尊別立の立場である。
 親鸞においては、以上のような釈迦仏と阿弥陀仏の両者を別立する立場のほかに、両者を統合し一致して捉える立場がある。
そしてそれについても、釈迦仏を主として、釈迦仏から阿弥陀仏を捉える立場と、阿弥陀仏を主として、阿弥陀仏から釈迦仏を見る立場との、二様の発想がある。
はじめの釈迦仏を中心とする両者統合の視点については、釈迦仏によって阿弥陀仏は教説され、そのように命名されたものであるという立場に立つ理解である。
そのことは『阿弥陀経』における、
「彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障礙するところ無し、是の故に号して阿弥陀仏と為す。また舎利弗、彼の仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と名づく」
と説かれる文によるところであり、親鸞はその『浄土和讃』に、
「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」
と語り、また『唯信鈔文意』には、
「この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば、阿弥陀となづけたてまつる」
と明かしている。
このような理解は、釈迦仏の教説によってこそ、はじめて阿弥陀仏が開示され、そのように命名されたのであって、釈迦仏と阿弥陀仏の関係は、ひとえに釈迦仏に帰結、統一されるというものである。
この立場は、また今日的には、浄土教理史の視点ともいいうるものである。
 そしていまひとつの阿弥陀仏を中心とする両者統合の視点については、阿弥陀仏がこの世俗に向って、釈迦仏として応現垂示したという立場に立つ理解である。
そのことについては、『浄土和讃』の中の『諸経意阿弥陀仏和讃』のはじめの二首が注目されてくるのである。
そこでは次の如く讃じている。
「無明の大夜をあはれみて法身の光輪きはもなく、無碍光仏としめしてぞ安養界に影現する」
「久遠実成阿弥陀仏、五濁の凡愚をあはれみて、釈迦牟尼仏としめしてぞ迦耶城には応現する」
前の和讃は、阿弥陀仏が光明かぎりなき仏身として、彼岸なる浄土に成仏影現したことを讃じたものである。
それは僧叡の『三帖和讃観海篇』によれば、語は曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』によるも、意趣は『阿弥陀経』の「彼仏光明無量照十方国無所障碍是故號為阿弥陀」に基づくという(4)。
また勝山善譲の『浄土和讃講義』によれば、『大方広仏華厳経』巻第二の「如来法身不思議如影分形等法界」(大正10ノ8C)の文意によるものであるという(5)。
また深励の『三帖和讃講義』によれば、これは諸経の中、ことには『法華経』『大日経』などの意によるといっている(6)。
また柏原祐義の『三帖和讃講義』によれば、これは『法華経』巻第五「如来寿量品」の「我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫」(大正9ノ42b)などの文によるという(7)。
そして後の和讃は、釈迦仏とは、久遠実成の阿弥陀仏が、この此土なる迦耶城に応現したものであることを明かしたものである。
ただし、ここでいう迦耶城とは、まさしくは釈尊誕生地のカピラヴァスツ(迦毘羅衛)のことである(8)。
それは僧叡の『三帖和讃観海篇』によれば、語は覚運の『念仏偈』により、意趣は『阿弥陀経』の「舎利弗当知我於五濁悪世行此難事」などの文に基づくという(9)。
また勝山善譲の『浄土和讃講義』では、覚運の『念仏法語』(「念仏宝号」のことか・筆者)の文によるという(10)。
また是山恵覚の『三帖和讃講義』(真叢別巻)によれば、語は覚運の『念仏偈』に採って、意は『阿弥陀経』の名義段の所説に合するものといっている(11)。
また深励の『三帖和讃講義』によれば、『法華経』巻第五「如来寿量品」によるという(12)。
また柏原祐義の『三帖和讃講義』によれば、『法華経』の「如来寿量品」の「釈迦牟尼仏出釈氏宮去迦耶城不遠坐於道場」(大正9の42b)などの文によるというのである(13)。
このことについては、私見によれば、前の和讃は、曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』の「法身光輪遍法界」「仏又号無碍光」などの文により、また後の和讃は、覚運の『念仏宝号』の中の「念仏偈」の
「極楽化主弥陀仏、寿命光明無数量、彼仏利益無際限、引接念仏諸衆生、(中略)法華経中最秘密、久遠実成大覚尊、三惑頓尽遍一切、無師独悟無始終、始成正覚釈迦尊、積功修道成正覚、為化往縁諸衆生、迦耶始成非実仏、准例極楽弥陀仏、亦是垂迹応非実、是故実成弥陀仏、永異諸経之所説」(大日本仏教全書・第41巻・天台部5ノ140)
という文によると考えられる。
しかしながら、それが『諸経意弥陀仏和讃』と名づけられるところからすれば、それは明らかに、何れかの経典に依拠して作成されたものといわねばならないのであろう。
 とすれば、この二首の和讃は如何なる経典に基づくものであろうか。
従来の研究においては、管見によるかぎり、上に見た諸説のほかに詳細に考察指摘したものはないようである。
そこで私は、いまのこの二首の和讃は、基本的には『悲華経』に依拠し、その意趣に基づいて和讃したものであろうと推定するものである。
親鸞はその浄土教領解において、『悲華経』を披見し、それから深く学んでいることが推察されてくるのである。
すなわち、その『教行證文類』の『行文類』には、真宗の行道を明かすについて多くの経文を引用しているが、その中に『悲華経』に説かれるところの、阿弥陀仏の本願五十一願の中の、『無量寿経』の第十八願文に相当する第四十五願文を引いており(14)、またその『化身土文類』には、『無量寿経』の第十九願文に相当する第四十六願文を引用する(15)ところである。
またその『行文類』には、憬興の『無量寿経連義述文賛』の文を十文も引用しているが、そこには『悲華経』の文およびその思想が濃厚に反映した文章が引かれているのである。
その点、親鸞が『悲華経』に注目したのは、この憬興の『述文賛』に学んだものではないかと思考されてくるところである。
 この『悲華経』とは(16)、慈悲の白蓮華(Karuna‐pundrika)と名づけられる大乗経典であって、五濁悪世のこの現実世界に出現して、一切の群生を済度する釈迦仏を讃えるものである。
その内容は、あらゆる仏たちを浄土成仏の仏と穢土成仏の仏とに区分し、前者については阿弥陀仏を代表せしめ、後者については釈迦仏を代表せしめて両者を対比しつつ、穢土において成仏した釈迦仏こそが、阿弥陀仏に勝れたところの仏であるとし、それを讃嘆するものである。
すなわち、転輪王(無諍念王)が、五十一種の願を発し、西方の浄土において成仏したのが阿弥陀仏であり、宝海梵志が、五百種の大願を発し、この娑婆世界において成仏したのが釈迦仏であって、この釈迦仏こそが、阿弥陀仏に勝れた仏であるというのである。
親鸞が、上に見た如き『諸経意弥陀仏和讃』において、阿弥陀仏を讃じて「安養界に影現する」といい、またその阿弥陀仏が、更らには「五濁の凡愚をあはれみて釈迦牟尼仏としめしてぞ、迦耶城には応現する」と語るのは、このような、阿弥陀仏に対して釈迦仏を優先し、高く評価するところの、『悲華経』の思想を根底とするものであって、阿弥陀仏を釈迦仏に統合し、阿弥陀仏が、その慈悲の必然として、より徹底してこの迷妄に到来し、応現したものが、釈迦仏であると理解していたことを意味するものであろう。
上に見た二首の和讃の意趣は、まさしくここにあり、それはこの『悲華経』の思想に基づいて作成されたものと思考されるのである。
 そしてまた親鸞は、その『行文類』に、この無諍念王(阿弥陀仏の因位)と宝海梵志(釈迦仏の因位)の成仏について、憬興の『述文賛』(17)の、
「既に此土にして菩薩の行を修すと言まへり。即ち知ぬ、無諍王は此の方に在ますことを。宝海もまた然なりと」(行文類)
という文を引用している。
この文は、もと『無量寿経』巻下の、
「仏言はく、一を観世音と名づけ、二を大勢至と名づく、是の二菩薩は此の国土に於て菩薩の行を修し、命終し轉化して彼の仏国に生ぜり」
という文を注解するについて明かしたものであるが、いまはそれを転釈して、阿弥陀仏と釈迦仏について明かすのである。
すなわち、この文の意味は、無諍念王(阿弥陀仏の因位)も宝海梵志(釈迦仏の因位)も、ともにかってこの娑婆世界において菩薩の行を修したのであり、しかもまた、成仏したいまも此土当處にまさしく現在するということを明かすものであろう。
親鸞がこの文を引用したのは、如何なる意趣によるものであろうか。
そこには、親鸞における『悲華経』への注目が前提として存在していることは当然であるが、親鸞はこの憬興の『述文賛』を通して、阿弥陀仏とは、たんなる西方過十万億仏土の彼方なる浄土の仏ではなく、それはもと此土において修行したところの、この娑婆世界に深いかかわりをもつ仏であり、したがってまた、いまもこの此土に確かに現在する仏でもあるということを明かそうとしたのではなかろうか。
ここで「無諍王は此の方に在ます」というのは、まさしくそういう意味を表わすもののようである。
ここにもまた、親鸞における阿弥陀仏を主として捉える独特な二尊観が見られるわけである。
 そしてまた、いまひとつ親鸞には、この釈迦仏と阿弥陀仏の両者について、阿弥陀仏を中心に統合する理解を物語るものとして、『二尊大悲本懐』(または経釈要文)と呼ばれる一幅の軸物が伝えられている。
これはのちに蓮如によって「本尊」とも呼ばれているものであって(18)、中央上段に、太字で釈迦仏の出世を讃える文を書き、その下に、その文を注解して「教主世尊之大悲也」と結んでいる。
また中央下段には、太字で阿弥陀仏の誓願を讃える文を書き、その下にその文を注解して「阿弥陀如来之大悲也」と結んでいる。
そしてその最上段には、細字で源信の『往生要集』の文と、覚運の『念仏宝号』「念仏偈」の取意の文を書き、またその最下段には、細字で『無量寿経』発起序の五徳瑞現と出世本懐の文を書いたものである。
これは親鸞が本尊として敬礼したものであろうともいわれている(19)。
それは今日では、東本願寺、西本願寺、専修寺の各本山、および小松市本覚寺に蔵される四本が伝わっているが、その中の東本願寺蔵のものは、昭和二十三年の寺宝調査によって親鸞の真蹟と判定されたものである。
そしてまた西本願寺蔵のものは覚如、専修寺蔵のものは顕智、本覚寺蔵のものは蓮如の筆になるものといわれている。
これが親鸞の作品であるとすれば、親鸞の何歳の頃に成立したものであろうか、きわめて興味あるところである(20)。
この『二尊大悲本懐』において、釈迦仏の大悲と阿弥陀仏の大悲が、対称的、呼応的に捉えられていることは注目されるところであるが、またいまの論考にかかわって注意をひかれることは、その最上段に書かれた、覚運の『念仏宝号』「念仏偈」について書かれた親鸞による取意の文である。
そこでは、
「一代の教主釈迦尊、迦耶にして始めて成るは実の仏に非ず。久遠に実成したまへる弥陀仏なり。永く諸経の所説に異なる」(親鸞聖人全集・写伝篇(2)203頁)
と明かしている。
原文の「念仏偈」の意趣は、すでに上に引用した文に明らかな如く、迦耶において成道した釈迦仏は、応身仏であって久遠実成の実仏ではない。
それに准例すれば、浄土において成仏した阿弥陀仏も応身仏であって、別に久遠実成の阿弥陀仏がまします。
その点、諸経の所説とは相違する、というわけである。
しかしながら、いまのこの取意の文の意味するところは、原文の意味を転じて、いっさいの経典を開説した釈迦仏とは、迦耶において成仏した仏であるが、それは実の仏ではなく、本来的には、久遠実成なる阿弥陀仏にほかならない。
そのことは、諸経が説くところとは永く相違するものである、というのである。
ここでは親鸞は、明確に、釈迦仏とは阿弥陀仏にほかならないと明かすのである。
それは上に見たところの、阿弥陀仏から釈迦仏への方向における両者統合の発想からすれば、彼土なる阿弥陀仏が、この此土に向って到来、応現したものが釈迦仏であるという理解であるが、この『二尊大悲本懐』の文によれば、その統合の発想はいっそう徹底されて、釈迦仏とは阿弥陀仏であって、釈迦仏即阿弥陀仏にほかならず、その点では、一代の教法、ことにはまた『無量寿経』の説者は、阿弥陀仏自身であるという領解がみられるのである。
 その点、親鸞における釈迦仏を阿弥陀仏に統一する理解については、上に見た如く、『諸経意弥陀仏和讃』の二首によれば、彼土の阿弥陀仏が、此土に応現したものが釈迦仏であるという発想があり、また『行文類』に引用された憬興の『述文賛』の文によれば、阿弥陀仏も釈迦仏と同様に、此土において修行したのであって、この娑婆世界に関係が深く、いまもここに現在する仏であるという理解がみられるが、またこの『二尊大悲本懐』の文によれば、それはいっそう徹底されて、釈迦仏即阿弥陀仏、阿弥陀仏即釈迦仏にほかならないという領解がみられるわけである。
 かくして親鸞においては、阿弥陀仏と釈迦仏の関係について、両者二尊を別立する立場においては、阿弥陀仏とは彼土成仏の仏であり、釈迦仏とは此土成仏の仏であると捉えて、両者が彼此に呼応して、われらを発遣招喚し、また慈悲の父母として、われらを調熟し、摂取したもうというのである。
そしてまた、その両者二尊を統合する理解においては、その釈迦仏を中心とする立場からは、釈迦仏によってこそ、よく阿弥陀仏の大悲は開示されたのであり、阿弥陀仏とは、釈迦仏によってそう命名されたのであるという論理をもって両者を統一する発想がある。
そしてまたその逆に、阿弥陀仏を中心とする立場からは、彼土なる阿弥陀仏が、此土世俗に応現したものが釈迦仏であるという見方があり、より徹底的には、釈迦仏とは阿弥陀仏にほかならないといって、釈迦仏をただちに阿弥陀仏に重層統一する理解までみられるのである。
ことに、この『二尊大悲本懐』の文にみられるような、釈迦仏と阿弥陀仏をただちに重ねて、釈迦仏とはすなわち阿弥陀仏であるとする領解は、親鸞における独自な発想として、充分に注目されるべき思想であると思われる。
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四 むすび
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 以上、親鸞が『無量寿経』をもって、唯一絶対の真実教であると論定するについて、その根拠として、いちおうは、それが釈迦仏の出世本懐の経典であるという理由をかかげながらも、より根本的には、その内実的本質的な面においては、この『無量寿経』に開示されるところの阿弥陀仏の本願と名号が真実であることにより、またその外相的形態的な面においては、この『無量寿経』は釈迦仏の教説というよりも、阿弥陀仏によって開説された経典であると領解することによるという、二面が見られるということについて考察してきたわけである。
しかしながら、そこで注意されることは、親鸞においては、釈迦仏と阿弥陀仏の関係について、両者を別立して見る理解と、両者を統一して見るという理解があり、ことにその両者の統一において、釈迦仏とは阿弥陀仏の此土応現の姿であるという見方、また更には、その徹底としての、釈迦仏とは阿弥陀仏であるという、釈迦即弥陀、弥陀即釈迦にして、一代の教法を開示し、ことにはまた『無量寿経』を説いたのは、阿弥陀仏自身にほかならないという理解があるということである。
ことに親鸞が、釈迦仏の出世本懐の経典とは、『無量寿経』のほかに『法華経』その他の経典があることを知りながらも、そのことをまったく無視して、ひとり『無量寿経』のみを釈迦仏の出世本懐の経典であると主張し、その故にこそ、この経典が真実の教法であると論定したのは、その発想の根底に、このような釈迦仏と阿弥陀仏についての見方、領解があったことによるものと窺知されるわけである。