平成28年10月30日(日)   落 在 舎 Fujiwara


『大経』
《序分》
(一)証信序(しようしんじよ)
1.六(ろく)事(じ)(信(しん)・聞(もん)・時(じ)・主(しゆ)・処(しよ)・衆(しゆう))成就(じようじゆ)
「我聞如是一時仏住王舎城耆闍崛山中与大比丘衆万二千人倶一切大聖・・・」
(東P1西P3)
「わたしが聞かせていただいたところは、 次のようである。あるとき、 釈尊は王舎城(おうしやじよう)の耆闍崛山(ぎしやくつせん)においでになって、 一万二千人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。・・・」(現代語版P3)
「このようにわたくしは聞いた。あるとき、世尊は王舎城(ラージヤグリハ)にある耆闍崛(グリドラクータ)山のなかで、三万二千人の比丘からなる大勢の比丘僧団と一緒に滞在しておられた。・・・」
(『新訂梵文和訳無量寿経・阿弥陀経』藤田宏達訳P53)
・「我聞如是」
『大智度論』「問い、諸(もろもろ)の『仏の経』は、なぜ初めに、「如是(是のように!)」と称えるのですか?」「答え、「仏の法の大海には、信が能入(のうにゆう)(海に入らせる者)であり、智が能度(のうど)(彼岸に渡らせる者)であるが、「如是(是のように)」という意味は、すなわち是(こ)れが信なのである。もし人が、心中に信が有って清浄(疑を雑えない)ならば、是の人は仏の法に入ることができるが、もし信が無ければ、是の人は仏の法に入ることができない。信じない者はこう言うからである、「是の事は如是(是のよう)でない」と。是れが、不信(信じない)の相である。信じる者はこう言うだろう、「是の事は如是(是の通り)である」と。」(*『大品般若経』の「如是我聞」の註釈)
「化身土文類」(東P345西398)
「『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、 涅槃に入る因とする。 そのため三経のはじめには、 「如是」 と示されているのである。 「如是」 という言葉は、 善く信じるすがたをあらわしている。 いまこの三経をうかがうと、 みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしている。 その真実の心とは他力回向の信心である。 この信心は、 たぐいまれな、 もっともすぐれた、 真実の、 清らかな心である。 ・・・」(現代語版P  )
(武邑尚邦『大無量寿経講讃』(P35~36))「我聞如是」なら「聞」→「信」?
サンスクリット語では、「このように私によって聞かれた」と受動態で示される。私が聞いたと述べられていない点は、親鸞聖人が「ゆるされて聞く」と言われたことと考え合わせ注意すべきところと思うが、サンスクリット語からの翻訳では「如是我聞」でも「我聞如是」でもよいはずである。しかし、聞如是は聞信であり、如是我聞はは信聞である。一般的に言えば、『大智度論』に述べるように、信こそが仏法に入ることの根本である。この点で成仏道は信解行証と体系づけられるのであるが、聞如是ならば、聞法による信が根底となる。そしてその聞が「聞其名号」として説かれる『大経』であるからこそ、親鸞聖人の教行信証の体系が確立されるのである。道隠師(『大経甄解』)は、三経のなかで『大経』のみが「我聞如是」と説かれることに注意をして、『大経』にこそ弘願真実の法が説かれたのであると、親鸞聖人のお心を窺ったのである。
(信→解→行→証)
(教→行→信→証)
・「一時」=Samaya(三摩耶)仮時≠K?la(迦羅)実時
『大智度論』「問い、「天竺(印度)に説かれる「時」の名は二種有り、 一には「迦羅」二には、「三摩耶」である。仏は何故「迦羅」と言わずに、しかも「三摩耶」と言われたのですか?」答え、「若し「迦羅」と言えば、倶に(皆に)疑いが有るからである。」・・・「種種の邪見を除こうとするが故に、すなわち「迦羅時」を説かれずに、「三摩耶」を説かれたのである。」(*『大品般若経』の「一時」の註釈)
望月仏教大辞典「是れ印度の(時論)外道中には迦羅kaalaを計して実有となし、万物の因と説くものあるを以て、此等の邪見を除かんが為に、仏経中に多く三摩耶の語を用い、迦羅の語を用いずとなすの意なり。」
「動詞「倶に行くsam-i」の義を起源とする名詞。、衆会、一致平等、規則、教理等。」
松原祐善『無量寿経に聞く』(P43)
「説く人と聞く人が因縁和合して、説くべき時・聞くべき時が到来したところの、所聞の法(如是)と能持の人(我聞)とが和会した一時であるから、「聞持和会の時」とも解釈せられている。かくて一時とは、聞法の時節因縁の純熟した永遠の一時である。」
「一所聞法、即「如是」也。二能持之人、即「我聞」也。三聞持和会時、即「一時」也。」(源信『『阿弥陀経略記』大正57・674)
(聞かれる法「如是」と聞く人「我聞」の一致)
ただし、『無量寿経に聞く』では、「我聞如是」を「阿難の自信教人信の表明となるのであって」と言われる。⇔(永遠の一時)
・「仏」=仏陀Buddha
世尊bhaga(徳)-vat(幸福の所有者・神聖な者)(婆伽婆)
釈尊=釈迦牟尼世尊??kyamuni Bhagav?n(薄伽梵)
・「万二千人」=(『大阿弥陀経』『如来会』)
→「三万二千人」(『荘厳経』「サンスクリット本」)
→「千二百五十人」(『平等覚経』原始経典にも見られる)
三迦葉の弟子1000人とサンジャヤの弟子250人(仏伝に根拠)
           不可知外道(舎利弗・目連に付いて帰仏)
・「其名曰尊者了本際・・・尊者阿難」
「すなわち、了本際・(アージユニヤータ・カウンディニヤ)・・そして尊者阿難(アーナンダ)であった。それ以外にも非常に有名で長老で偉大な声聞たちが~学修の道においてさらになすべきことが残っていた一人、すなわち尊者アーナンダを除いて~一緒であった。」(藤田訳P55)
アーナンダは、阿羅漢果に達したのは釈尊の滅後であった。したがって、釈尊の在世中は「有学道=学修の道」にあったので、一人だけ区別される。ただし『阿弥陀経』を含む漢訳諸本ではアーナンダを阿羅漢と見なし、徳に区別していない。」(藤田訳註P200)
 
2.八相(はつそう)化(け)儀(ぎ)
「皆遵普賢大士之徳具諸菩薩無量行願安住一切功徳之法遊歩十方・・・」(東P2西P4)
「これらの菩薩たちは、 みな普賢菩薩の尊い徳にしたがい、 はかり知れない願と行をそなえて、 すべての功徳を身に得ていた。 そしてさまざまな場所におもむいて、 巧みな手だてで人々を導き、 すべての仏の教えを知り、 さとりの世界をきわめ尽し、 はかり知れないほどの多くの世界で仏になる姿を示すのである。」(現代語版P4)
・菩薩嘆徳「みなともに普賢の道を遵修し、 菩薩の一切の行願を満足し、 一切の功徳の法のなかに安住し、 諸仏の法に到り彼岸を究竟し、 一切世界のなかにおいて等正覚を成ぜんと願ぜり。」(『如来会』真聖全1・184)
(このようにして諸菩薩は世界のいたるところにその身を現して、八相を順次に示して仏と成り、衆生を救って下さる)徳=普賢の徳
・普賢の徳?二十二願(東19西19)
「菩薩の通常の各段階の行を超え出て、 その場で限りない慈悲行を実践することもできるのです。 」(現代語版P31通常の読み)
「通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳(菩薩が仏と成るために経過しなければならない十地の各段階において修める徳)をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。 」(現代語版P32)
「処兜率天弘宣正法捨彼天宮降神母胎従右脇生現行七歩光明顕曜普照十方無量仏土六種震動挙声自称吾当於世為無上尊・・・」(東P2西P4)
「まず、 兜率天において正しい教えをひろめ、 次に、 その宮殿から降りてきて母の胎内にやどる。 やがて、 右の脇から生れて七歩歩き、 その身は光明に輝いて、 ひろくすべての世界を照らし、 数限りない仏の国土はさまざまに震動する。 そこで、 菩薩自身が声高らかに、「わたしこそは、 この世においてこの上なく尊いものとなるであろう」 と述べるのである。・・・」(現代語版P4)
・八相=受胎・降生・処宮・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃(『大経』)
  兜率下生・託胎・出生・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃(通説)
  兜率下生・入胎・住胎・出胎・出家・成道・転法輪・入涅槃(『大乗起信論』)
・「右脇より生じて七歩を行くことを現ず。光明は顕耀にして、あまねく十方を照らし、無量の仏土は、六種に震動す。声を挙げてみづから称ふ、「われまさに世において無上尊となるべし」と。」
『如来会』「降りて右脇より生じて七歩を行ことを見(あ)らはす。 大光明を放ちて、 あまねく仏世界六種に震動し、 すなはちみづから唱へてのたまはく、われ一切世間においてもつとも尊貴とならんと。」(真聖全1・184)
八相化儀は『如来会』と『無量寿経』に有る
※いわゆる誕生偈「天上天下唯我独尊」について
「いのちが尊い」説が圧倒的
『長阿含経』(大正1・4)
「天上天下に唯我尊と為す。要(かなら)ず衆生の生老病死を度せん。」
衆生の苦を救済(利他)のゆえに尊
『修行本起経』(大正3・463)
「天上天下に唯我尊と為す。三界皆苦、吾まさにこれを安んず。」
三界の衆生の苦を救済(利他)のゆえに尊
『大唐西域記』(大正51・902)
天上天下に唯我独り尊し。今茲にして往き、生分已に尽きたり。」
釈迦がここに解脱するゆえに尊い(パーリ仏典にも共通?)
中村元選集11「われは世界の首位者である。われは世界の最年長者である。われは世界のもっとも勝れた者である。これは最後の生存である。もはやふたたび生存に入ることはない。」と毘婆尸仏の誕生偈伝説が由来。
(1)万人は平等である
(2)万人が平等であるとさとった人は偉い
(3)万人が平等であるということを説いたのはブッダだけであるからブッダが尊い
ブッダの超人性を、後代の宗教的心情が強調させた。だから仏だけが尊いでよかった。しかし哲学的には退歩。むしろ「われ、すなわち人間の本来の自己が尊い」ということを象徴的に示したのである。
大谷光真『愚の力』P47
「では「いのち」とは何なのでしょう。私もこの言葉をよく使うので、他人事ではないのですが、「いのち」という言葉が濫用されています。濫用し始めると、その意味を深く考えなくなります。「いのちは尊い」などと言って簡単に済ませてしまいます。」
本来的な意味は「いのちは尊い」であるべき?伝承の意図までもが置き換えられる