行信論管見 稲葉秀賢
『親鸞教学』27号 (大谷大学真宗学会 昭和50年)
常識的に仏法は心の問題と言われているが、果たしてそうであろうか。近世以来身
体と精神は全く別であるが如く思惟され、仏法も心の問題と言われてきた。
然し、なま身といわれる人間存在は単なる物体ではなく、その中にあらゆる精神的
作用を秘めて、常に外界と対応してゆく精神的存在であるといわねばならない。夙に
仏教にあっては身心一如といい、身体と精神とは一にして同ずべからず、異にして分
かつべからざるものとせられてきた。それにも拘わらず、身体を別にして精神のみを
強調するところに、宗教信仰の観念化があるのではなかろうか。
行信の問題の基底にもこのことが注意せらねばならない。
一、
1,聖道門にあっては発心修行といい、浄土門にあっては安心起行という。これ身心
一如の道理を示すものであり、これが現実的な宗教的事実である。
この機のうえは他力の安心よりもよほされて、仏恩報謝の起行作業は
せらるべきによりて行住坐臥を論ぜず、長時不退に到彼岸のいひあり。
『改邪鈔』
機の上から云えば、一念の安心から起行作業はせられるのであって、安心は単に心
の問題ではなく、行住坐臥という身体的作業の上にあらわれるのである。
聖道門においては行証ということが強調され、発心は行修の終始を貫くものであり、
また行修のきびしさが要求されるのは、身体を離れて精神はないからである。
これに対し、『教行信証』にあっては、行信と次第している。
この行信の関係について準縄となるものに、存覚上人が、「行は所行の法、信はこ
れ能信」と規定せられ他にも、「十七十八更に相離れず、行信能所機法一なり。」、
「所行の法に就いて能信の名を挙ぐ。」『六要鈔』と同一の意味を云われている。
また、「名号は大行大善たりと雖も是れ所行の法、今は、能信の心なり、是の故に
且く非行非善なりと云ふ。」と、所行の行体に対し、能信の信心を相対せられている。
然れば、所謂「所行は能行に対し、能信は所信に対する」と領解することは行信の
関係を混乱させるものでは。 では、所行能信とは如何なる意味であろうか。
2, 発心修行、安心起行という場合、安心は心であり、起行は身である。まことに心
は心であり、修行は身であることは常識である。然るに行信という場合には行は
心であり、信は身であるということにならないであろうか。ここに所行といわれ
る大行の意味を明らかにせねばならない。
「大行といふは無碍光如来の名を称するなり」、これは明らかに称名念仏であり、
単に語業(身)に過ぎぬ如くに感ぜられるのだが、ではその称名念仏が如何にして、
「斯の行は即ち是れ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり、極速円満す、真如一実の功
徳法海なり。」と云えるであろうか。
宗祖は 「往相の廻向に就いて真実の教行信証有り。」 (教巻)
「往相の廻向を按ずるに大行有り、大信有り。」(行巻)
と示された。これは大行が往相廻向の行であり、大信も往相廻向の信であることを
説くものであり、大行が浄土真実の行であり、選択本願の行であることに注意された
のものである。
[称名念仏が選択本願の念仏(往生之業念仏為本)であることを明らかにされたの
が法然聖人の『選択集』であり、それをうけて宗祖は称名念仏が選択本願の廻向
なることを知らしめんとせられたのである。]
称名念仏が選択本願の廻向であるということは、単なる語業(身)ではなく、本願
を憶念する心業(心)、つまり称名念仏が所行として心にあるということである。も
し称名念仏の称に執えられるならば、それは自力の称名に堕して大行とはいわれない
であろう。
このように、称名念仏が如実(真実の道理にかなう)であるということは心(信)
において選択本願の廻向が証知せられたことである。従って如実の称名はそのまま聞
名であり、選択廻向の名号を信ずることである。念仏するということは、本願を信ず
るというほかにあるはずがない。まことに大行を大行たらしむるのは大信(心)であ
る。
称名が聞名であるならば、それは名号の顕現であり、ただ本願の名告り(「如来已
に発願して衆生の行を廻施したまう心」、発願廻向)を聞くのみである。
それ故に称名は他力の大行なのである。
かくして、称名は単なる語業(身)ではく、行はまさに信(心)において受持すべき
である。
それではその信心とは単なる意業ではない。それは身に喜び溢るることであって
「信心歓喜」といわれる所以である。それ故に宗祖は常に信心は歓喜であると釈して
いられる。
世親の『浄土論』では、礼拝、讃歎、作願、観察、廻向を以て念仏をあらわし源信
ははこれを五念仏門としている。然しこの五念は一心の流出であって、一心の信心が
顕現して五念の行となる。然るに五念の行は自ずから称名讃歎に統一せられている。
さらに曇鸞の註解では、称名念仏は五念行を統一するものであって、念仏するとき
には自ずから礼拝、作願して浄土を憶う時には自ずから称名しているのである。
これが一心の信心の姿である。
このことから、行は心であり、信は身であると受持せられるのではないだろうか。
二、
1, 「行巻」の標拳の文
凡そ「行巻」に於いて称名念仏が浄土真実之行であり、選択本願之行であることは
標拳の文に「浄土真実之行、選択本願之行」と細註せられることで明らかである。
選択本願之行とは、元祖にあたっては十八を別願とする立場から選択本願とは十八
願であり、宗祖に於いては、十八願のみならず、十七、十一(必至滅土)願を総じて
選択本願と名付づけられている。
それは三願ともに念仏往生をあらわすからであるが、如来発願の本意は、摂取衆生
ひとつにあるのであって、念仏往生の願が王本願であることは明瞭である。
それ故に「行巻」の標拳に選択本願之行とあるのは、浄土真実之行が選択本願之行
であることを示すのであって、たとえ行信相対して、行は十七願成就であっても、そ
の行を選択本願之行と名づくることは、十八願を選択本願とする義と異なるものでは
ない。
選択本願の行なればこそ、易行の至極が称名念仏に過ぐるものはないことが明らか
にせられたるのである。
宗祖が行の一念の「一念」について、「選択易行の至極を顕開す。」といわれたの
も、大行の称名念仏が選択本願たることを示すものである。
2, 然からば我々は如何に称名念仏を行ずべきであろうか。
それは本願を信じて念仏申すのである。称名念仏において、本願の勅命を聞くので
ある。帰命というは、本願招喚の勅命であり、その勅命にしたがいたてまつるのが帰
命である。
帰命のないものには阿弥陀如来はないであろう。従って摂取して捨てざる阿弥陀の
本願を信じて、疑いのない身にならしめるものが本願の名号であり、選択本願の名号
であり、選択本願の念仏である。
まことに称名念仏なしに、本願の願心を信知することはないであろう。そこに念仏
が選択本願之行といわれる所以がある。されば称名念仏の行は、称名憶念であって、
それは心に関わるものである。
称名念仏は律法ではない。寧ろ如何なる律法も守ることの出来ぬ深い悲しみと悩み
のなかに、本願を憶念して称えらるるものである。それはまことに本願力廻向の念仏
である。
かくして行は心にかかわり、必ず信を離れないから行信と次第するのであり、信が
なければ如来の行は衆生の行とならぬのである。凡そ如来の行が衆生の行となる関節
は信である。従って信はただ心にかかわるものではなく、身にかかわるものである。
3, 信は身
如来の行が衆生の行となる信の具体的表現は称名念仏である。そして称名念仏はあ
くまで身にかかわるものである。だからといって、称名念仏は音声を体とする語業で
はない。かえって本願の行を信楽する信を体とせる身体的表現である。
宗祖が「信巻」の標拳に「至心信楽之願 正定聚之機」とあらわされたのは、
選択本願の行を信ずる行人であることを示しているのであり、故に、『六要』におい
ては、「至心信楽の行人」とせられてある。
そして信楽の一念を釈して、「広大難思之慶心を彰す。」 といい、信心歓喜を釈
して「歓喜と言ふは身心の悦予の貌を形はすなり。」 とあるのは、信は常に身に形
わるるものであることを示しているのである。
『大経』の五徳現瑞での自利利他の徳は光顔巍々として、身はその清浄心のあらわ
れる場所であり、「現生十種の益」といわれる益も必ず現生において獲られるもので
ある限り、身にあらわれる信心のはたらきに外ならない。
かくして「真実信心には必ず名号を具す」といわるるのであって、信のない行は真
実でない如く、行を伴わない信は観念に外ならない。
ここの行信の次第はまた信行の次第を成ずるのであって、表裏の関係に外ならない。
これらのことから行は心にあり、信は身にありという領解が他力廻向の行信の関係
をあきらかにするものと云えないであろうか。
まとめ
称名は、単なる語業ではない。そこに願力廻向の信がなければならない。これ「大
行有
り、大信有り」といわれた所以である。既に行も願力廻向であり、信も亦願力廻向で
あ
る。然れば、行も信も、行者にとっては、非行非善である。行者にとって非行非善で
ある
ということは、称名念仏を行善としてはからわぬことである。我等に行として意識せ
られ
るものは大行でなく小行であり、我等に善として意識せられるものは小善であって大
善で
はないであろう。行善を力としてたのむ自力の心が打ち砕かれるところに称名念仏が
あ
る。されば称名念仏は、「摂諸善法具諸徳本」なのである。そしてこの大行のみが、
極速
に真如一実の功徳宝海を満足せしめるのである。
従来、称名念仏と云えば、之を能行と云い、之を能集の行であるが如く受けとられ
てい
る。然しそれでは、行信を能所に配せられた重要な意味が見失われるのである。行は
常に
所修であり、信は常に能修である。
称名念仏は本願に選択せられた往生の行としての法である。それ故にこそ、大行と
は無
碍光如来の名を称するなりと示されたのである。然も称名に「摂諸善法具諸徳本」の
徳を
具するのは、それが如来廻向の行だからである。如来廻向行であって、自力の称念で
はな
いから、行者にとって、念仏は非行非善であるといわるるのである。
其仏本願力の文に就いて既に宗祖が
「其仏本願力といふは、弥陀の本願力とまふすなり。(中略)聞といふは如来のち
かひ
の御なを信ずとまふすなり。」『尊号真像銘文』と説かれている。
聞名ということは、「如来のちかひの御なを信ず」ることであって、それが衆生の
信相
としてあらわれるるときは、称名念仏でなければならない。本願を信ずるといっても、
そ
れはただ心の問題ではなく、念仏申すことである。そして念仏申すなかに、礼拝も作
願も
観察も廻向も具るのであって、信はまことに身の問題といわねばならない。
宗祖は信心歓喜を釈して
歓喜といふは歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるな
り。
といい、又、歓喜踊躍を釈して
歓喜はうべきことをえてむずと、さきだちてかねてよろこぶこゝろなり。
踊は天におどるといふ、躍は地におどるといふ、よろこぶこゝろきわまりな
き
かたちなり。
と釈して、信心が観念でないことを説き示していられる。
まことに身心は一如であって、所修の行と能修の信とは別なるものではない。
称名信心相離れざるものであって、行は心にあり、信は身にあって、身心一如なると
ころ
に、行信一如の世界があるのではないであろうか。