落在舎HP

テーマとしての「信心の社会性」
  〜吉本隆明のことばを手がかりに

 「言葉と行動はただ、比喩を破壊する比喩の自己否定的な連鎖としてのみ息づくことができる」(吉本隆明『試行』1961・9創刊号より)このことばを親鸞の宗教思想的あり方になぞらえてみる。即ち「親鸞の表出する言葉と行動は、その比喩自体を破壊(解体)する、阿弥陀という比喩の自己否定的な連鎖としてのみ息づくことができる」と。突飛と思う方もあろうが、弥陀を生き歩まんとする親鸞にこういう言いまわしがふさわしいかどうかは別にしても、ある意味で私にとっては親しみやすいのだ。こうしたことばは、阿弥陀という仏格の絶対性を無化する道程から滲み出て来るものであり、また、親鸞自ら宣言する煩悩具足の凡夫と、阿弥陀という仏格との関係の絶対性を指示しているものと言えよう。『自然法爾章』には「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」といい、行巻「一乘海釈」(註釈版p199)には、念仏と諸善を比J対論する中に、「教の対論」と「機(ここではたまわりたる信心)についての対論」があって、いずれの比J対論の後にも、それぞれ「しかるに」の接続詞がおかれ、続けて「本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教」、「一乗海の機をを案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機」とある。 そこに、やっと相対比較の世界に充足、転落してしまうことからかろうじて免れんとする姿を見ることができるのだ。何気ないこれらのことばも、「比J対論」という比喩の自己否定的な連鎖としてのことばと了解し、読み取ることができよう。さらに言えば、これらのことばは、相対的対立概念(対待)を絶する絶待に着地せしめる比喩であって「無碍絶対不二」「不可稱・不可説・不可思議」へと超えて行くてだてとしての不可避のことばであったと。『この道理をこころえつるのちには、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし』。吉本は、「絶対信」の『最後の親鸞』が佇む先に「自己欺瞞にさらされない世界」があることをひそかに読み取ったのではないか。

 さて前置きが長くなったが、はじめて「信心の社会性」というテーマが立てられたのは、差別法名の問題をめぐり部落解放同盟の方から「私たち僧侶の実践が過去どのよううであったか、現在はどのよううなっているのか」という批判に対してだったと記憶している。テーマとしての「信心の社会性」という言葉だけを考えてみると、直接的な言語性(コミュニケーションとしての性質)だけで「信心」(自己における問題)と「社会性」(集団、共同的問題)という位相の違いを示す言葉を無条件に位置付け、並列して語ってしまっている。それでは、つまるところ物事を言語の直接性で語り展開するだけで終ってしまい、そこから支配や抑圧といった問題の本質をお互いが了解し語り合い、明かにしていくことにはつながらない。何故なら、言語で表出されるものと現実との間にある、幻想(人間特有の観念)における「よじれ」「軋み」「拮抗」といったものを対象化することができないからだ。そのテーマをもとに語れば、ときには共通項があるから近づいた思い、ときにはまた話が本質からそれてしまった思う。こうして堂々巡りを繰り返すことになる。これは「念仏者の社会性」と言葉を変えたとしても同じことだ。
 吉本氏は、言語の媒介的な世界を押え得る言語思想のあり方を「先端的な言語と土俗的な言語とのあいだでつくられる緊張した屈折や乖離の構造を、はせ昇りまたはせ降りることができる言語思想」(『自立の思想的拠点』)といい、また、「幻想を幻想の共同性の意識として表出する人間のみに固有な発展の仕方」を対象化して以下のように述べる。
 「国家は国家本質の内部では、宗教を起源として法と国家にまで普遍化される観念の運動をつくりあげたものであり、この本質の内在性は、社会の経済構成の発展とは別個のものとして、ただ巨視的な尺度のうちで対応性が成り立つとみなすわたしどものかんがえは、言語本質の内在性を自己表出とみなす言語思想と一致している。そしてこの考察は、言語を指示性・コミュニケーションとしてだけ見るべきではなく、言語本質の内部では自己表出であり、その外部本質では指示性であるような構造とみなすこと」(同前)。
 また、〈自己幻想と共同幻想の逆立〉という彼独特の概念を用いて、「自己幻想と共同幻想の〈逆立〉とは、観念と現実の二元性の、現実に身を置くことによって〈逆立〉を〈逆立〉として意識化し続ける中で、その受感によく耐えうるか否かがとわれること。」といった趣旨のことをいっている。
 吉本独特の言語概念で読み取りにくいかもしれないが、平たく言えばこういうことだであろう。「共同幻想の最少単位は三人で、三人が共同出資して諸々の規則を定めて会社を創ることになったとします。当面運営のための月間会費は千円。やがてその中の一人が失職して会費が滞るようになった。会費の不払いは規則に反するので、不払いの人は規則が重荷になり、グループに対して否定的になっていきます。他の二人も三人で決めた規則に従えないものはもはやグループではないと考えるようになる。規則にだけ照らしていえば、国家も同じことで、つまり法に照らしてだけいえば、法にはずれたということです。そうして個人と三人のグループで決めたこととは相互否定的になっていきます。そうすると、共同の取り決め(国家の法律)は、国家の中での個人は、自分も、暗黙のうちに同意してその法律はできているけれども、自分がそれを守れなくなったら途端に、共同で取り決めた規則と個人の精神性とは違和感を持つようになります。極端になれば相互否定的になってくるのです」。これが〈自己幻想と共同幻想とは逆立する〉ということの中身だ。ここに、吉本のものを見つめ考える基本姿勢がよく伺える。意識、無意識を問わず、何を言っても自己欺瞞にさらされてしまうそのことについて、このような言語思想を構築すべき課題として提出しているのだ。
 私たちは「信心の社会性」というテーマのもとで、安易に信心と実践行為を整合させようとしているのではないか。そうだとすると、進める運動自体が矛盾を孕んでしまうことになる。つまり、お互いが自己欺瞞を抱えながら、だましだましの道中とならざるを得ないのだ。
 しかし、掲げてしまった以上はそのことを踏まえ、お互いの自己絶対化への危うさを意識しながらやっていくしかないようにも思える。現状においては、テーマを是とするも非とするもお互いがその歩みを後向きに相互補完しているに過ぎない事態に見えてしまう。その行きつく先は、南無阿弥陀仏を自己絶対化の道具として貶めてしまうという結果なのだ。これは、ある共同観念に自己同一化を果たすことの安易さには常に付き纏う問題といえる。
 「信」と「個人における差別問題」は勿論大切な課題ではあるが、共に個人的体験或いはその周辺の問題で、それをそのまま社会性の問題として拡張することには無理があるのではないか。何故なら、自己幻想(個人)と共同幻想(共同体、組織)とは逆立ちする関係にあり(『共同幻想』)、夫々次元・位相を異にしているのだから。
 「相対的なものの絶対化」のうちに充足している意識や観念の自然過程は、それを超えて現れる「事物」としての外部世界の絶対性に触れるとき、いやおうなくそうした自然過程の無底性に直面せざるをえない。
 「そのとき、〈わたし〉は宗教的なものを欲するだろうか。また理念を欲するだろうか。死を欲するだろうか。そしてやはり自己欺瞞にさらされるだろうか・・・たぶん〈わたし〉はこれらすべてを欲し、自己欺瞞にさらされない世界を求めようとするだろう。そんな世界はありうるのか?」(『最後の親鸞』)。こうした思想的営為を経ることなく、自分が親鸞の徒を語ることは憚られる。巻頭における吉本の『試行』創刊の決意は、自己欺瞞に陥る危うさをでき得る限り拒否し続けていこうとする、ある意味では絶望的な決意を示しているといえよう。
 先達の差別解消に対する篤い思いとその歩みに共感しかつ敬意を表しつつも、反面違和を感ぜざるを得ないのは、以上のことが運動に関わる個々人にとってどうなっているのかわからない点にある。吉本隆明の思想を借りて語ったのも、自分自身がなかなか自前の表現をとれない拙さのゆえであることも間違いないことだ。これらのことは、少なくとも今の私が一歩前に進むのためには必要不可欠のこととを思えてならないことだ。
 最後に教団、教義、個人とその救済について「他力」の言葉を通して少し考えてみる。通常「他力」という場合には、あらかじめ定められた信成就の理と個々の信仰の関係を通して、信仰する個々人―その行為―とその救済のあいだにある絶対的な因果関係が設定されているということだ。この因果関係はそのうちに内在する「〜のために」「〜のゆえに」という原因と結果の対応関係(因果応報の理)を通じて信仰を「真理」への接近過程として定型化してゆく。この定型化された「真理」への接近過程が目に見える「理」というかたちをとるとき教義となり、ひいてはそうした教義にもとづいて建てられる宗派へと結実してゆく。
 いかなる宗教的なものであっても、こうした教義や宗派の理である点においては、そしてそれを支えている因果応報の理を土台としている点においては同根といえよう。教団内外に関わらず、「信」についても、知や認識の「理」と同様に、意識や観念の自然過程に不可避的に付随する「相対的なものの絶対化=自己絶対化」―主観的な内在性への自足―に拘束されてしまっていると言えそうなのだ。主観的な内在性への自足を拒否し続けようとすれば、それを突き詰めていったたとき、一切の「宗教的なもの」の絶対性の無効化―現存する宗派やその教義も無効化に向わざるをえない。
 こうしたことは、とても切実で難しい問題だが、これをやり過ごしては、人間の尊厳を失わず、すなわち自己欺瞞を行わずして救済を意志するということなどとてもできるはずもない。(今津芳文)