はじめに
浄土真宗において、大行論が大きな問題になり、とくに本願寺派で、なぜあんなに大きな問題となり、長い論諍が続いたのであろうか。
↓
宗祖自身の表現に二つの意味に取れるものがあったから。一面では大行とは「諸仏の称名」であるといい、他の一面では、「衆生の称名」であると表現されてある。
「諸仏の称名」
あくまでも仏のものであり、阿弥陀如来の名号を流布する諸仏の行為にほかならない。第十七願の「諸仏の称名」。衆生にとっては、仏の教(教位)であり、聞かれもの(所聞位)であり、信ぜられもの(所信位)でなければならない。
「衆生の称名」
まったく衆生の行為であり、如来の願力を信じた後の称名でなくてはならない。
この全く異なった性格を持つ表現が「行文類」に宗祖自身の言葉で表現されている。だから、そのいずれかに重点をおくかによって、大行の意味に大きな相違が生じてくる。大行とは「諸仏の称名」である(所行系)といい、あるいは「衆生の称名」である(能行系)と主張してゆずらないようになった。
しかし、宗祖自身が、大行とは第十七願の「諸仏称名の願」によるものであるといわれ、また「大行これすなわち無碍光如来のみ名を称するなり」といわれてある限り、どちらかに限定することは一方にかたよった考え方である。すなおに、大行とは「諸仏の称名」であり、私の聞きものであると同時に、私の口から出てくださる「衆生の称名」であるともいわなければならないのである。これが「能所不二」の学説(諸仏の称名、私の聞きものである名号(所行)が、そのまま衆生の称名(能行)と全く同一のものである)とならざるを得なかった故である。
しかし、能所不二の学説にも、所行に重点をおく説、能行に重きをおく説などあって、大行論を複雑にした。
宗祖の行の取り扱い
『教行信証』によると、法門の組織に「教行証」の三法と「教行信証」の四法との組織があり、その三法とは『教行信証』の題号の「顕浄土真実教行証文類」といわれるものであり、四法とはその内容である「教行信証」である。しかし、行観を知るには『教行信証』の表面には直接表現されてはいないが「教行信行証」という五法の法門をも考える必要があるのではないでしょうか。
先哲が常にいわれる、行の取り扱いに「行前信後」と「信前行後」という二があるのである。これは三法四法五法という組織、とくに四法の他に五法組織を考え、この四法とそれをさらに開く五法法門とが、信の前後にある行を明らかにし、その二の行の性格をも明確にするもののように思われるのである。但し、第四位の「行」は往生の決定した信心の後の行であるから、往生の証果の因とはならないものであるということを十分注意しておかなくてはならない。
「行前信後」、「信前行後」の根拠
第十七願成就と第十八願成就との連関によるもので、両願の成就文、第十七願成就文には「十方恒沙の諸仏如来が皆ともに無量寿仏の威神功徳不可思議を讃嘆したまふ」とあり、それをうけて第十八願成就文には「あらゆる衆生、その名号を聞いて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」とある。これは明らかに諸仏の讃嘆の声を衆生が聞信するのであるから「行前信後」の根源的な態である。また、十八願文は「至心信楽欲生我国、乃至十念」とあるから、「信前行後」である。
第十七願の諸仏の讃嘆に称名があると見てよいか?
宗祖は第十七願には諸仏の称名が存在すると考えられていたように思う。宗祖は「行文類」に第十七願に、「諸仏称揚の願・諸仏称名の願・諸仏咨磋の願・往相回向の願・選択称名の願という五つの願名がつけられてある。このうち、第二の「諸仏称名の願」という願名を重要視されていたことは、標挙によっても引文によっても明かである。第十七願の讃嘆には、願文に「咨磋称我名」とあるが如く、広く讃嘆する咨磋・称揚と称名の二があったと考えられたことは明かであろう。
※
咨磋とは讃嘆、称揚とは広く名※
号の徳を讃嘆すること。
咨磋:ためいきをついて嘆くこと。称揚:ほめたたえること。(広辞苑)
しかし、この場合の諸仏の称名も、善導・法然のいわれる、往生の因としての称名ではなく、あくまでも讃嘆としての称名であり、教位としての称名である。但し、教位といっても称名しなさいと教える意味ではなく、諸仏が仏名を称えていることが讃嘆であり、それがそのまま教位であるという意味である。だから、衆生にとっては、ただ、教として聴聞するより外はない称名である。
第十七願の讃嘆の中に南無阿弥陀仏を称えるという略讃が存在するのであろうか?
広讃と略讃とを区別して考える必要があるかどうかは、考えてみる必要があるのではないか。南無阿弥陀仏と称える称名が主要なものとなり、それが往生の生因であるという、善導・法然の教義により、称南無阿弥陀仏という『観経』の教示が浄土経にとって重大な意味を持ってきて、これに特に「略讃」という特異な意味をもたせ、特殊な位置をあたえたのではないかと思う。だから、讃嘆はあくまでも讃嘆であって、広と略はあっても、それは詳しく広く讃嘆したか、簡略にいったかの相違であって、特殊な差別を立つべきではないと思われる。もし、称南無阿弥陀仏に広讃嘆とちがった、特殊な意味があり、利益があると考えたら、念仏の呪術性という問題が起こってくるのではないだろうか。
讃嘆に広讃と略讃とを特に区別して考えなくてもよいのではないだろうか。
いずれにしても、信前の「行」、「行文類」に示された大行は、諸仏の行であり、教法であるといわねばならない。したがって、衆生にとっては所聞の法でなくてはならない。
大行の表現について
「行文類」の大行は、讃嘆の教位のものであるなら、宗祖は「称無碍光如来名」などと、衆生の称名とされたのであろうか?
一私案として、宗祖が大行を衆生の称名で表現されたのは、師法然上人の念仏往生の深意をあらわそうとされたものと見たい。それは、念仏往生というが、実は衆生の称える念仏の力によって往生するのではなく、如来の成就された名号によるものであることを明らかにするために、本来名号であり、諸仏の称名を、衆生の称名のうえで語り、念仏往生の意味を示そうとされたものではないだろうか。
先哲のなかで、「能所不二、鎔融無碍の法体大行」であるといい、その理由として、大行といわれる衆生の称名は、称えながらも「称即名」とまきあがるといい、衆生の称名が大行といわれる場合には、称名のまま、称えているという立場ではなく、諸仏称名と同じく、まったく聞きものとなるという意味である。衆生の称名とはいっても、所聞位、諸仏の称名の立場、教位にまきあがる称名であるというのである。
浄土往生の教えでは、浄土往生の因としては、浄土教の往生の因が、五念門行から五正行へ、五正行にも正定業(称名)と助業との差別ができ、さらに専修念仏(称名)へと展開したように、だんだん易行易修となるものである。それは救済とは無力者を救うものであり、慈悲というものは、まず無力者にこそ必要なものであるからである。如来の大悲も「無縁を救うもの」とならざるを得ないのである。
如来の願力・名号の独用で往生するという立場にたつと、念仏往生とは、衆生の称名が生因ではなく、諸仏の称名(名号)こそ浄土往生の因であることを明らかにせんがために、衆生の称名をあげて、それは衆生は称えておるが、そのまま諸仏の称名であり、聞きものの名号であることをあらわすために「行文類」に衆生の称名をあげて、その称名が諸仏の称名と同位になることを明らかにされたのである。
法然上人までの念仏往生と申されるものは、五法組織にあてはめると、第四の行であり、信後の行となるのである。したがって、衆生の称える念仏であり、称える数も時間も問題ではないとはいわれるが、やはり衆生の行として残るものがあるので、純粋な意味での他力、絶対他力とはいささかあい入れない問題が残るのである。そこで宗祖は、衆生の称名を、第十七願の諸仏の讃嘆する称名となし、信後の称名を信前の称名にまきあげて、道綽禅師以来の称名往生の思想に一大転換をあたえられたものと見るべきではないだろうか。
・
大行とは第十七願の諸仏の讃嘆するもの。
「・ 大行はすなわち、無碍光如来のみ名・ を称するなり」・(衆生の称名・ )
「・ 名・
を称するに、よく衆生の一切・ の無明を破し、よく衆生の一切・の志願を満てたまふ」・ (称名・
によって浄土往生の証果を得る)
「称無碍光如来」→ 讃嘆 → 大行といわれる衆生の称名は讃嘆の称名。「行文類」の大行には「諸仏の称名」と「衆生の称名」との表現はあるが、讃嘆の立場であって、衆生にとっては、聞きものであって、直接に往生の因を示されたものではなく、所信の教の立場。
大行としての衆生の称名
宗祖は、第十七願の諸仏の「我称名」に注意して、念仏往生の念仏を、第十八願の「乃至十念」から第十七願の「諸仏の称名」にまきあげられたのではないでしょうか。在来とかれて来た念仏往生とは衆生の称名ではあるが、実は衆生の称名のまま諸仏の称名である、衆生は称えているが、そのまま所聞位の名号にほかならないものであると説こうとされたのが、宗祖の『教行信証』の主張であると見るべきではないでしょうか。
大行といわれるものは、たとえ衆生の称名でいわれても、それは衆生の称名そのもののところ、称えているところではなく、あくまでも所行(名号)と不二なものであり、所聞の諸仏の称名と同位になっているもので、あくまでも「法体大行」ではなくてはならないものである。
衆生の称名をどうして諸仏の称名と同位であり、称即名とまきあがるといえるのか?
1.
第十七願の讃嘆に諸仏の称名2. があるか否か。その称名3.はいかなる意味を持つか。
4. 衆生の称名5. がどうして諸仏の称名6.と同7.
位になるのか。
8.
そうした主張をする宗祖の御文について考えなければならないものがある。
1については「諸仏称名の願」が特に主要視されて、宗祖当時、念仏・称名といえば「称南無阿弥陀仏」であったのであるから、「諸仏称名」は諸仏が「南無阿弥陀仏」と称名すること。しかし、讃嘆の立場であり、教位の立場であることを忘れてはならない。
諸仏の称名と衆生の称名
衆生の称名がどうして諸仏の称名と同位になるのか?
称名と名号との関係、また諸仏とはいかなる方か、他者とはいかなる意味かという、広い問題がある。
称名 如来のみ名を称えること
(能称)
名号 称えられているもの (所称)
信心と名号の関係
名号 信ぜられるもの (所信)
信心 その名号を信ずる
(能信)
信即聞の立場
名号 聞かれもの (所聞)
信心 聞きもの
(能聞)
↓
信心とは名号を聞くこと
この立場でいうと、諸仏の称名は、諸仏が阿弥陀如来のお徳を讃嘆する一方法であり、私にとってはその讃嘆を聞くほかはないのであるから、諸仏の称名は所聞位となり、所聞の
名号だといってよいのではないだろうか。
諸仏の称名が、私の所聞の名号であるとするならば、称名のままが称名(称即名)にまきあがるものとなるといってよいのではないでしょうか。だから、私の称名は称名でありながら、所聞位または教位にまきあがったものというべきである。
諸仏の称名 → 諸聞位 ---同位--- 所聞位 ← 衆生の称名
では、諸仏とはいったい誰か?
諸仏 → 十方三世の仏果を開いた方 (ex.釈尊)
厳密にいえば「諸仏の称名」とは私たちにとっては、お釈迦さまの称名。しかし、もっと意味を広めていえば、「聖道といふは、すでに仏になりたまへる人の」、「すでに仏になりたまへる仏・菩薩のかりにさまざまの形をあらはして」(末灯鈔)ともいって、聖道門の人々を「仏」と申されてある。よって、私に念仏の教えを伝えてくださった善知識と思われる方々を、仏と味わってもよいのではないでしょうか。
意味を広めていくと、諸仏の称名とは他の人々の称えている称名のことだともいえるのではないでしょうか。
諸仏の称名を、私の所聞位の称名、教位の称名という考え方が許されれば、自分の口から出てくださる称名を聴聞するという立場も理解される。
「行巻」における六字釈の意義
称即名と巻きあげられた論理的根拠
「行文類」の六字釈にある。
南無阿弥陀仏の六字の名号の解釈は、善導大師が解釈されたように、南無は帰命であり、また発願廻向であり、阿弥陀仏はその行であると、衆生の称名の上で解釈すべきものであり、その南無の翻訳である帰命は、「命に帰する」意味であって、阿弥陀如来のおおせにまかせる意味とみるべきである。宗祖も『尊号真像銘文』には「帰命はすなわち、釈迦・弥陀二尊の勅命に従い、めしにかなふとまふすことばなり」とあって、南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏の勅命に信順することであると示されてある。しかるに、宗祖はそれを「行文類」には「帰命」を「帰せよの命」の意味であるとして「帰命とは本願招喚の勅命」であるとされたのである。
「しかれば、南無は帰命なり、帰の言は至なり、また帰説(エチ)なり、説の字は悦の音、また帰説(サイ)なり・・・」といい、その結論として「ここをもって、帰命は本願招喚の勅命なり」といわれている。
ここで注意すべきは「帰」の文字に「説」の意味のあることを示されることである。説とは言葉に出して、いいあらわすことである。帰に「人の意を宣述るなり」という意がある。
帰命とは「帰せよの勅命」ということになれば、南無阿弥陀仏とは「この阿弥陀仏にまかせなさい」という勅命になるのである。すると今までは、南無阿弥陀仏と称えることは、衆生の方から阿弥陀如来に申し上げる意味であったものが、まったく変わって、如来の方から私を呼んでくださる如来の「および声」と変わるのである。
「行文類」の大行は、衆生の称名であるといっても、それは「如来の勅命」であり、諸仏の教えたもう教であり、第十七願の意味から言えば、諸仏の称揚であり、諸仏の広讃であり、阿弥陀如来のみ名を称えるものであるといってもよいのではないでしょうか。諸仏の意味を拡大すれば、善知識をも含むことになり、さらに広く他の人びとにも広まる可能性が出てくるのではないでしょうか。いずれにしても、自分が聞く称名は、如来の招喚の勅命となるのである。
他の人の称名を聞くのと同じように、私の口から出てくださる南無阿弥陀仏も、私の口から出てくださる、如来のおよび声と聞くことも、許されるのではないでしょうか。
この衆生の所聞位にまきあがる称名は、在来考えられていた称名念仏とは、性格のまったく異なるものであるということは、十分考えておく必要がある。この称名はあくまでも所聞位の讃嘆であって、往生の業因の意味でもなく、また、信後の乃至十念の報恩の称名とも性格の異なるものである。
大行の場合の称名は、衆生の称名でありながら「称即名とまきあがる」とか「称名のまま諸仏の称名と同位になる」といえるのである。
おまけ 私の一考察
私たちの称名が、称即名とまきあがり、諸仏の称名と同位(教位)になるという本論文を読ませていただき、思ったことを書かせてもらいます。
本論文は、以前担当させていただいた「唯心淨土・・・」に比べはるかに読みやすかったです。数や時間、有念無念、そういう衆生のはからいを取っ払ってしまいすっきりとした読後感があります。が、しばらくして、じゃあ衆生の称名は私の行為として何なのか、という問題が湧いてきました。
電子回路にはバイアス電圧、バイアス電流というものがあります。トランジスタ等の能動素子には、一定方向のみ電流を通すなどの特性があり、増幅器として利用する場合にはその動作範囲をうまく利用してやらないと、増幅された信号は入力とはにてもにつかぬものとなります。適正に動作領域にもっていくために負荷する直流電圧がバイアス電圧と呼ばれるものです。入力(交流)に対して意図的に直流を負荷することによって、出力には入力の何倍かの増幅された信号が出力されます。
教位の諸仏の称名が入力とすると、このバイアスに相当するものをかけてあげないと、私の称名は「称即名とまきあがる」ことなく歪みだらけのものになってしまうのではないでしょうか。苦労してノイズや歪みを除去した特性の良い増幅器を作っても、バイアスが不適切であればだめです。バイアスに相当するものは、恐らく称名とは異質なもの、社会環境とか教育、科学とかになるのではないかと思います。このバイアスを正しく誘導してあげないと、増幅された私の称名は出てこないのではと思ったりします。
交流から直流を作り出すこともできますが、それより手っ取り早いのは電池を負荷すること。そういったことを考えてもいいのではないでしょうか。(無理矢理こじつけるのではなく、外部要因に糸口がある)
自分の口から出てくださる称名を聴聞するという立場ということに相当するような負帰還という増幅器の安定動作に通じる技術もありますが、また今度。